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八木博司の挨拶
個展:『佛教回廊 In ロサンジェルス』開催の挨拶

 今回、ロサンジェルスで開催する個展[pass to Buddha]は「仏教」をテーマにコンピュータグラフィックスで仏を表現したものです。仏教は2500年前に釈迦を開祖に開かれた宗教です。宗教というよりは、人が如何に生きるべきであるかを解いた哲学であるといっても過言ではないと思います。私は宗教人ではありません。写真家でありCGアーティストであります。ここ何年か前から釈迦を勉強しだし、人は如何に生きるべきか、を少しずつ学んできました。といっても初歩の初歩ですが。そのなかで特に印象に残った言葉が「ほどほど」という言葉です。

 

例えばバイオリンでもギターでも、音を出すのに、ここでもない、ここでもない、ここだという適度な場所があります。もっとわかり易くたとえれば、「暑くもなく、寒くもなく、程よい暖かさ」「満腹でもなく、空腹でもない、意識しない状態」と、適度な思考状態を示す言葉だと理解しました。実生活においてこうなって欲しい、こうなりたい等の欲がからむため、利己的になり、適度の状態を超えてしまうことにより、腹立たしく思ったり、喧嘩をしたり、妬んだりという負の精神状態になるのではないでしょうか。「ほどほど」という言葉、言い換えれば適度な思考による状況判断で生活できれば、毎日が幸せに生きられるのではないでしょうか。

 

20世紀末、テクノロジーは、日々格段の進歩を見せています。テクノロジーが発達すればするほど、心の調和、やすらぎが必要になってきます。こういう時にこそ「ほどほど」という哲学が必要とされるのではないでしょうか。 今回アメリカのロスアンジェルスで個展を思い立ったのは、アメリカという国、アメリカ国民そのものが如何に生きるべきかと模索している国だと思ったからです。 今回の作品をアートとしてみるか、宗教としてみるか、私にとってそれはどちらでもよいことで、この作品を見られて如何に生きるべきかを再度自分自身に問い詰めることの契機になればこんな嬉しい事はありません。又、今回の作品は日本の読売テレビで特集を組んで紹介され、新聞も7紙ほど取り上げていただきました。それを見て遠方から夜行列車に乗って見に来ていただいた方もいらっしゃいます。作品を見に来られた方のなかで、生きる希望を持たれた方が数人いらっしゃいます。アメリカにおいて、この様な方がいらっしゃるかどうかは解りませんが、一人でも多くの方に見ていただき、仏教の何かを感じていただきたく思っております。

 

作品は何百年も経過した国宝や重要文化財を撮影し、CG処理することにより現代の仏画としてよみがえらせた、世界でも初めての試みです。 ただ、これらの宝物に手を加えることは、歴史的な蛇足としての愚行であるかもしれません。幾分かの冒険をまじえた「一つの試み」ではありますが、日本の仏教の持つ魅力と何百年と伝わる心はそのままに、次世紀へと開いていくアートの問いかけとしてご高覧賜りますようお願い申し上げます。

八木博司

コンピュータ・グラフィックス展 「仏教回廊」開催について

 氏のCG展「仏教回廊」は、各マスコミが「現代の仏画」として注目する反面、僧侶達の間では2種類の物議を醸したと言って過言でない。 その一つは、本来礼拝の対象であるべき仏像・仏画を単なるオブジェとして扱っているのではないか?という類の物議である。それに対し、彼は剥げ落ちている色であるとか、薄くなった線に関しては若干の補正をしたが、仏像本体をデフォルメするような不遜な加工の仕方はしていないという返答で物議を治めようとしたようである。 二つ目は、物議と言うほどではないモノの、彼のCG作品に見られる装飾の「意味」を問うという類の質問である。曰く背景に配された球体の意味は?その数の意味は?色の意味は?と。其れはおよそ彼が予測しなかった質問責めであったといってもイイ。

 

彼はその作品に見られる大胆さからは想像が付かないくらいに生真面目である。当然彼は前の2点にごく生真面目に答えようとした。 しかし、実は私は其れは無用のことであると考えている。

 

彼と共に写真を学んだのは既に30年以上前になる。 それまで「写真技術論」や情緒的な「写真批評」は存在したが、未だ日本に学問的鑑賞に堪えうる「写真芸術論」が存在しなかった頃、故重森弘庵氏はまさしく「写真芸術論」という著作をひっさげて、颯爽と写真評論界にデビューをされた。そしてその考え方に基づいて優秀な写真家を育てるべく、一つの学校を設立された。我々が学んだのはそういう時期であった。それ故その学校は今のような専門学校とは違って実にユニークな連中が幅広い年齢層で集まってきていた。

しかしその学校の設立者が最も注目されている新進の評論家であるという関係からか、僅かに我々には理論が先行するという傾向があったかも知れない。 そんな中でおよそ自分のペースを崩すことの無かったのが八木その人である。

 

当時我々の間では「言語的発想」と「映像的発想」という言葉が飛び交っていた。つまり映像の世界に身を置きながら、未だ映像文化が未発達であったその時代、多くの者は発想そのものが言語的であり、その映像作品までも全て言語で分析してしまわないと気がすまないと云う傾向の中にあったようである。 そのような傾向の中では、彼の作品は一種の異端児であった。 しかし確かな制作衝動があって作られた彼の作品は、我々仲間の誰よりも早く世間の認めるところとなった。つまり彼はその頃から既に映像的発想の出きる人だったのであろう。

 

今彼はその頃の現実を思い出すべきである。人がいちいち聞いて納得する言葉など準備する必要はないのである。彼の作品はその作品自体が何よりも雄弁である。 彼が持っている断片的な宇宙というモノに対するイメージ(一部の専門家以外に宇宙というモノに対して明確なイメージを持ったモノは多くいないであろう・・・彼もその一人である)・・・何故かその中にかの仏像群を配してみたくなった。優れた技術を駆使して、彼は自分が納得するまで色を加え、オブジェを配し或いは光を射してみた。 彼は信仰心の故にそれらの仏像をデフォルメしなかったわけではない。如何に何をイメージしようとも、その仏像群が彼の加工を拒否したのである。それこそがまさに礼拝の対象として長く存在し続けた仏像群の強みでもあった。

 

彼の類い希な感性と技術は、誰も想像しなかった、そして何となく宇宙の神秘を見せてくれるような空間を創り出し、その中で見事にその仏像が礼拝され続けたワケを見せてくれたのである。

 

物議を醸した僧侶達は、仏像を伝統的な形式の中で礼拝させなければならないと頑なに考える人達である。しかし考えなければならない。その仏像群の真の力が彼のCGによって再認識できたのである。そして其れは伝統的な礼拝の形式というモノに疎遠である人達にも仏縁を生じさせたのである。 彼の作品が写真芸術の世界でも歴史的な偉業であると同時に、仏教の側でも宗教活動の在り方を問いかけてくるという意味で、注目すべき出来事であるような気がして成らない。

西楽寺住職 滝川秀行

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